本学は、1939年に最後の帝国大学として1943年には、愛知県や地元の土地区画整理組合の寄贈や協力を得て、名古屋市東部の丘陵地の一角であった東山地区にキャンパスが創設された。名古屋市街の外れに位置したこの地から、都心部に向けた壮大な都市軸として構想されたグリーンベルトは、キャンパスの成長を見据えたオープンスペースとして、今では本学の象徴的な空間となっている。創立期、澁澤元治初代総長による「緑の学園」構想に端を発し、起伏を生かした区画整理街路網など、土地の特性を的確に把握した内田祥三や本多静六ら識者による構想が、キャンパス計画の骨格となった。その後、戦災を受けるものの、戦後は将来の成長を見据え敷地の拡張を進め、全国的にも大規模なキャンパスに医学部と附属病院を除く全部局が集約した。1960年には、新たな時代の大学の象徴として、建築家・槇文彦設計によるモダニズム建築の傑作豊田講堂が竣工。1960-70年代には、現在につながる主要な施設が配置され、1980-90年代には東部の保全緑地を残してキャンパス全域に施設が配置された。東山キャンパスは、現在、東西1.4kmに及ぶ約70万m²の土地、約50万m²の施設に、医学部と附属病院を除くほとんどの部局の学生・教職員約 17,000名が生活する本学の基幹キャンパスである。しかし、高度経済成長期以降、多くの国立大学と同様に、施設の量的な拡充に重点が置かれ、教育研究施設が著しく増加した結果、建て詰まりが進行し、その解消や施設老朽化が大きな課題となった。鶴舞キャンパスは、名古屋市のほぼ中心地に位置しており、敷地の南側には市民の憩いの場である鶴舞公園がある。東山団地からは約 4kmの位置にあり、約 9万m²の土地に約 22万m²の施設がある。このキャンパスは、愛知県立医学専門学校時代に官立大学への昇格の布石として整備され、1914年に移転して成立した本学で最も古いキャンパスである。その後、官立名古屋医科大学から名古屋帝国大学医学部となり、 戦災を被りながらも拡張整備が進められた。昭和から平成に年号が変わる頃から再整備計画が検討されはじめ、郊外に移転という選択肢も検討されたが、鶴舞の地に留まって都心型キャンパスを維持し再整備に 努めることを決定した。その後、長期計画に沿って整備が進められ、2015年の旧東西病棟の解体完了をもって、附属病院の再開発整備が完了するとともに、医系研究棟 3 棟や中央診療棟 B の整備が完了したもの の、建て詰まりが進行し、オープンスペースの確保・緑化推進が大きな課題となっている。大幸キャンパスは、東山キャンパスの北約5kmの位置にあり、約5万m²の土地に約3万m²の施設がある。敷地の西側には国土交通省中部技術事務所、南側にはナゴヤドームがある。このキャンパスは、戦前に三菱重機械工業(現三菱重工)が生産施設として使用していた土地であり、戦後の平和政策により愛知教育大学が活用していた当地を本学が取得し、当初は医学部附属医院分院として活用しつつ、今日の保健 学科設立の拠点となった。各キャンパスはこのように、それぞれ歴史を積み重ねてきたが、1990年代以降、成長を前提とした秩序を忘れかけた整備から、保有資産を有効に活用しつつ、持続的な維持・更新に重点を移す必要性が生じた。 こうした背景から、キャンパスのあるべき姿を描くCMPの策定が要請されるに至った。0142-1-1 キャンパスの創設からキャンパスマスタープラン策定へ2-1 キャンパスの位置づけと土地利用計画
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